構造
3人乗りの小型の車体に全周旋回可能な37mm砲という組み合わせは、開発当時には世界的に見て標準的なものであった。ただし、採用された九四式三十七粍戦車砲は、歩兵砲である狙撃砲の改良型であり、長砲身化したものの砲尾等の強化はされず、同時期に開発・採用された対戦車砲・九四式三十七粍砲のような初速の高い弾薬筒は使用できなかったため、同時代の同口径の戦車砲を装備した他国の戦車、及び同口径の対戦車砲全般に対して本車は装甲貫徹力の面で大きく劣ることとなった。後に九四式三十七粍砲の弾薬筒をそのまま利用できる九八式三十七粍戦車砲を搭載するようになったが、当時既に九四式三十七粍砲自体がアメリカ陸軍の強力なM3軽戦車などの当面の目標に対して貫徹力不足であり、劣勢が変わることはなかった。九四式/九八式三十七粍砲は、高低射界は仰角20度、俯角15度で、方向射界は砲塔を旋回させることなく主砲を左右に10度ずつ旋回することができる機構を取り入れていた。砲の俯仰旋回は車長兼砲手が肩に当てたパッドを使って行った。
九五式軽戦車の砲塔の旋回は、(九四式軽装甲車の方式と混同されて)「旋回ハンドルではなく、車長兼砲手の肩を主砲に当てて回転させる、人力旋回方式である」と、しばしば誤解されることがあるが、実際には戦車砲左下の砲塔基部に旋回ハンドル(旋回転把)が存在し、これにより砲塔旋回を行う。
砲塔はヴィッカース 6トン戦車E型 Type B 単砲塔型のように、車体左寄りに偏って配置されていた。この砲塔を偏らせて配置する方式は、以後、九五式軽戦車の設計の拡大版である九七式中戦車系列(九七式中戦車・九七式中戦車新砲塔・一式中戦車・四式中戦車試作車)にも引き継がれる、日本戦車の特徴のひとつとなる(ただし九五式軽戦車とは反対側の車体右寄りである)[。
また、車内レイアウトは人間工学的には無理があり良好とは言えず、特に狭い砲塔には前方の37mm砲に加え、後部に車載重機関銃が詰め込まれ、その両方の装填から射撃までを車長一人で操作しなければならなかった。そのため現場では砲塔後部の車載重機関銃を降ろして搭載しない車輌も多かった。
機動力
本車は八九式中戦車乙型の「三菱A六一ニ〇VD」(イ号機とも呼ばれる)をコンパクト化した、「三菱A六一二〇VDe」(「ハ号機」とも呼ばれる)空冷直列6気筒ディーゼルエンジンを搭載した。「A」は「空冷 Air-Cooled」、「六一二〇」は「6気筒120馬力」、「V」は「縦型=垂直(シリンダー)=Vertical=直列」、「D」は「ディーゼル Diesel」の意味である。エンジンは車体後部右側に偏って配置された。消音器と排気窓も車体上部の右側面に配置された。エンジンの左側には空間があり、戦闘室と機関室の間の隔壁に連絡扉(アクセスハッチ)が設けられ、車内からエンジンの点検整備ができるはずであったが、実際には空間が狭過ぎて人が出入りできなかった。試作車の車体後部には大型の出入口扉(点検窓)があったが、量産車では廃止された。起動輪は前方に、誘導輪は後方にある、前輪駆動方式であった。足回りには九四式軽装甲車から導入された「シーソー式サスペンション」を採用した。転輪は中型の物を片側4個、支持輪は片側2個であった。履帯幅は250mmであった。 本車は、最大速度25km/hの八九式中戦車から大きく速度向上を果たし、トラックとの協同作戦行動が可能な最大速度40km/h以上の速度を発揮できた。試作車は重量が7.5tを超過した状態であったが最大速度43km/hを発揮している。6.5tに軽量化された改修型試作車は最大時速45kmを発揮した。
連合国に鹵獲された本車は最大速度40km/h以上の速度が記録されており、1945年8月の米軍の情報資料では速度性能を時速28〜30マイル(約45〜48km/h)としている。当時の連合軍の記録映像によればスチュアート軽戦車(英軍のアメリカ製M3A3軽戦車)と直線区間4/10マイル(約644m)を競争した結果「我が方の戦車(M3A3軽戦車)は50秒、九五式軽戦車は55秒。我が方の戦車が10%速い。」としている。なお英国ボービントン戦車博物館に展示されている九五式軽戦車の解説パネルには「最大速度30マイル(約48km/h)」と記載されている。
軽量化とディーゼルエンジンの採用により、航続距離は250kmとなっている。
攻撃力
本車の前中期型には九四式三十七粍戦車砲が搭載された。弾頭と薬莢が一体となった完全弾薬筒式である。弾薬は軟目標射撃用の榴弾として九四式榴弾・一式榴弾、硬目標射撃用の徹甲弾として'九四式徹甲弾・一式徹甲弾を使用する。また、演習弾として九四式榴弾代用弾・九四式徹甲弾代用弾を使用できる。九四式三十七粍砲と同じ弾頭を使うものの薬莢は短いものを使用し、弾薬筒レベルでの互換性はない。また、装薬量も少なく、初速が遅いため装甲貫徹能力は同砲より劣っていた。
九四式三十七粍戦車砲は、ルノー軽戦車に搭載されていた旧式化した狙撃砲の後継と言えるものであり、同年に制式化された九四式三十七粍砲のような初速の高い弾薬は使用できなかったため、同時代の同口径の戦車砲を装備した他国の戦車、及び同口径の対戦車砲全般に対して装甲貫徹力の面で大きく劣ることとなった。ただし、歩兵砲由来の戦車砲を搭載したことによる貫徹力不足は、同じく37mm歩兵砲由来の主砲を搭載したフランスのルノー R35軽戦車などと共通する問題点とも言える。ただし、後期型では九四式三十七粍砲と同一の弾薬筒を使用する九八式三十七粍戦車砲が搭載され、装甲貫徹能力が向上させるなど対策が行われており、R35もスペイン内戦の戦訓を受け、結果的にフランス降伏までに全車両の換装は間に合わなかったものの、1939年から既存車両の主砲の換装を行うなど、九五式と似たような対策がとられており、この点については九五式特有の問題というわけではない。
九八式三十七粍戦車砲は、九四式三十七粍砲や一〇〇式三十七粍戦車砲と弾薬は同一であり共用可能であった。九八式三十七粍戦車砲と貫通威力が近似するとされる(弾薬筒が共用であり初速の差が約15m/s程度)九四式三十七粍砲の場合、九四式徹甲弾の装甲板に対する貫徹能力は350mで30mm(存速575m/s)、800mで25mm(同420m/s)、1,000mで20mm(同380m/s)であり、一式徹甲弾(全備筒量1,236g)の貫徹能力は第一種防弾鋼板に対して射距離1,000mで25mm、砲口前(距離不明、至近距離と思われる)では50mmであった。
また1942年5月の資料によれば、九八式三十七粍戦車砲と貫通威力が近似するとされる九四式三十七粍砲は、試製徹甲弾である弾丸鋼第一種丙製蛋形徹甲弾(一式徹甲弾に相当)を使用した場合、以下の装甲板を貫通するとしている。
・200mで49mm(第一種防弾鋼板)/28mm(第二種防弾鋼板)
・500mで41mm(第一種防弾鋼板)/24mm(第二種防弾鋼板)
・1,000mで31mm(第一種防弾鋼板)/16mm(第二種防弾鋼板)
・1,500mで23mm(第一種防弾鋼板)/15mm(第二種防弾鋼板)
九四式三十七粍砲を鹵獲したアメリカ旧陸軍省の1945年8月の情報資料によれば、垂直装甲に対して射距離0ヤード(0m)で2.1インチ(約53mm)、射距離250ヤード(約228.6m)で1.9インチ(約48mm)、射距離500ヤード(約457.2m)で1.7インチ(約43mm)を貫通するとしている(ただし使用弾種は九四式徹甲弾となっているが、貫徹威力が日本側の一式徹甲弾のデータと近似していることから、米側の表記ミスか双方の徹甲弾を混同した可能性がある。)。
なお、九四式三十七粍戦車砲用に配備された一式徹甲弾(全備筒量1,056g)は、九八式三十七粍戦車砲・一〇〇式三十七粍戦車砲・九四式三十七粍砲用の同弾(全備筒量1,236g)と弾頭は共通であるが薬莢長が短く、初速が低いため装甲貫徹能力も低下している。
なお、九四式三十七粍戦車砲用に配備された一式徹甲弾(全備筒量1,056g)は、九八式三十七粍戦車砲・一〇〇式三十七粍戦車砲・九四式三十七粍砲用の同弾(全備筒量1,236g)と弾頭は共通であるが薬莢長が短く、初速が低いため装甲貫徹能力も低下している。
したがって九八式三十七粍戦車砲を装備した後期型の本車であっても、M4中戦車の車体側面・後面(装甲厚約38mm)やM3軽戦車の正面装甲に至近距離から正撃に近い形で命中させなければ貫通は困難と思われる(ただし、後述する実戦での事例においてM4中戦車を撃破した可能性のある事例が存在する)。
これらの徹甲弾はいずれも弾頭内に炸薬を有する徹甲榴弾(AP-HE)であり、貫徹後に車内で炸裂して乗員の殺傷及び機器の破壊を行うのに適していた。
なお、日本軍の対戦車砲全般に対し、貫徹能力の低さについて「当時の日本の冶金技術の低さゆえに弾頭強度が低く徹甲弾の貫徹能力が劣っていた」と揶揄されたり、徹甲弾弾頭の金質が悪かった[21]という指摘、装甲板に当たると弾頭が砕けたり滑ってしまうため、貫徹力が発揮できなかったという指摘がある。九四式三十七粍砲・九四式三十七粍戦車砲で使用された九四式徹甲弾や、九〇式五糎七戦車砲・九七式五糎七戦車砲で使用された九二式徹甲弾等は、弾殻が薄く内部に比較的大量の炸薬を有する徹甲榴弾(AP-HE)であり、厚い装甲板に対しては構造的な強度不足が生じていた。後にこの点を改善した一式徹甲弾が開発・配備されることとなった。なお、九四式徹甲弾も制式制定当時の想定的(目標)に対しては充分な貫通性能を持っていると判定されて採用されたものである。後に開発された一式徹甲弾では貫徹力改善のために弾殻が厚くなっている。
諸外国の例としてアメリカ陸軍のM3 37mm砲の徹甲弾(AP)である「AP M74 shot」は、砲弾の中心まで無垢の鋼芯であり、構造的な強度上では砲弾の中心に炸薬がある五糎七戦車砲の九二式徹甲弾や九四式三十七粍砲の九四式徹甲弾のような徹甲榴弾(AP-HE)よりも有利である事が分かる 。
防御力
装甲については用兵者側でも評価が分かれていた。1935年(昭和10年)12月の第13回審議会において、騎兵科では、自動車と行動できる機動力を確保するため、防御力が若干落ちてもやむをえず、装甲の弱さは機動性を生かした総合的な防御力で補えばよいとした。他方、歩兵科系列の戦車部隊は、機動力・武装は十分だが装甲については現状では不十分で、このままでは戦車としての価値は低く、せめて装甲厚30mmは欲しいと主張した。これは1,000mの距離からの37mm対戦車砲にギリギリ抗堪できる装甲厚であった。最終的には、本車の当初の開発意図である「機動戦車」としては12mmの装甲厚で十分との結論が下された。これは7.62mm徹甲弾にギリギリ抗堪できる装甲厚であった。歩兵科側の要求は、別途開発される戦車(九五式重戦車や九七式中戦車)において実現させる意図から、九五式軽戦車の性能は潔く割り切ったものと考えられる。
なお、小銃弾にも耐えられないという問題に対しては、第二次試作車から車体側面の砲塔基部に避弾経始に優れたバルジ(張り出し)状の装甲を追加する改良が行われ、量産車からは第二次試作車よりも大型のバルジが採用された。バルジは左右対称ではなく、左右で微妙に大きさが異なっていた。前照灯は戦闘時の被弾による破損を避けるため、不使用時は180度回転させることができた。
それよりも、同時期に登場した他国の37mm程度の砲を装備した軽戦車(ルノーR35、BT-5、LT-38など)が概ね10t前後の車重を有したのに対し、本車はそれより一回り少ない約7tに制限されたことは、本車の限界を決定付けた主要因となった。これは日本は島国であるが故に、戦車を国外に移動させる時は船舶を用いざるを得ず、当時の標準的な港湾設備や船載クレーンの能力から、重量を6t以内に収めることが要求されたことによる選択であったとも言われる。また、当時の日本の技術力では高出力軽量の戦車用ディーゼルエンジンが開発できず、エンジン重量がかさんだこともあり、装甲厚を薄くして車重を軽量化するしかなかった。
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