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*基本情報 [#j75c9e0e]
|CENTER:|CENTER:|CENTER:|c
|~画像|~名前|MediumM3リー|
|&attachref(lee2.jpg);|~国|アメリカ|
|~|~レアリティ|★3|
|~|~出撃数|2|
|~|~編成コスト|1580|
|~|~戦車タイプ|中戦車|
|~|~優先ターゲット|司令本部|
|~|~攻撃範囲|単体|
|>|>|~戦車紹介|
|>|>|多角形の形と複数のリベット、&br;75mm砲塔を搭載できなかったために&br;車体に固定された75mm戦車砲が特徴である。|

 

|~全長|5.64(m)|~全高|3.12(m)|
|~全幅|2.72(m)|~重量|27.90(t)|
|~最大装甲|30(mm)|~乗員|7人|
|~懸架方式|>|>|垂直渦巻きスプリング・ボギー式|
|~主砲|>|>|75mm M2・37mm M5|
|~副武装|>|>|7.62mm M1919A4|
*ステータス [#d559491e]
|~火力|~装甲|~射程|~速度|~連射|
|98|512|830|55|127|
*ゲームにおいて [#x1c91e07]

連合国・アメリカ染めに他の戦車がないという場合に採用する程度の戦車である。
とはいえ、(ドイツを除く)中戦車では★相応の能力を有しており決して悪い性能ではない。が、M4やT-34、蛍を持ってるいるならば使われなくなるだろう。
手に入れやすいので上記の戦車が出るまでの繋ぎに使うのがいい。
なお、これと次の車両が以上に出やすいので全部埋めたい人はM3地獄という底なし沼に嵌る可能性があるのでほどほどにしましょう。

*元ネタ [#r4afa70b]

M3中戦車とは、第二次世界大戦中にアメリカで製造された戦車である。
グラントおよびリーという2つの愛称はいずれもイギリス軍でのもの。イギリス向けの仕様で生産されたものを南北戦争時の北軍将軍ユリシーズ・S・グラントの名をとってジェネラル・グラント、アメリカ陸軍向けの仕様のままでイギリス軍に配備されたものを南軍の将軍ロバート・E・リーの名をとってジェネラル・リーという。

&size(18){開発の経緯};
1939年9月の第二次世界大戦勃発からヨーロッパを電撃戦で席捲したドイツ軍機甲部隊は、主砲に50mm砲あるいは75mm戦車砲を装備したIII号戦車やIV号戦車を投入しており、37mm砲と機関銃8挺を搭載した歩兵部隊用に開発された戦車に過ぎないM2中戦車の劣勢は明らかであった。その時点でアメリカ軍が装備していた装甲車両は約400輌で、その大部分はM1軽戦車とM2軽戦車を主体としており、数十輌のM2中戦車とM2A1中戦車が残りを占めていた。
1940年6月にフランスが敗北すると、アメリカ陸軍では戦車部隊を発足させる計画が開始された。それまで別々だった歩兵戦車隊と騎兵機械化部隊の統合が行われた。
議会では中戦車1,500輌分の予算が承認され、1940年8月15日に、1年以内にM2A1中戦車を1,000輌生産する計画がクライスラー社と契約された。しかし次期中戦車は装甲を強化した上で 75 mm 砲を搭載することが決定され、この計画は直ちに書き換えられた。1940年8月28日のクライスラー社との契約で、M2A1中戦車に替わり新型のM3中戦車を生産することとなった。[1]
アドナ・チャーフィー大将と兵器局の会談で、75mm砲を搭載可能な大型砲塔、砲塔リングなどを早急に設計するには兵器局は経験不足であるという警告がなされ、実際に量産可能なレベルには至っていなかった。そこで、大型砲塔が開発されるまでの繋ぎとして、T5中戦車の車体前面右側に75mm軽榴弾砲を装備するテストを行っていたT5E2中戦車の設計がM3中戦車に継承された。
その結果としてM3中戦車は、車体右側スポンソン(張り出し)部のケースメート(砲郭)式砲座に31口径 M2 75mm砲と車体固定式の7.62mm機関銃二挺が備え付けられ、上部に37mm砲と同軸の7.62mm機関銃を搭載した全周旋回砲塔と、車長用の7.62mm機関銃塔が追加された、変則的な形の戦車として完成した。1941年1月に先行試作型が完成し、1941年4月から生産が開始された。車体の基本構成は共にT5中戦車を範とするM2A1中戦車とほぼ同じで、垂直渦巻きスプリング・ボギー式(VVSS)の足回りや、コンチネンタル社製の空冷星形9気筒ガソリンエンジンを搭載している点などは、1942年2月より量産開始されたM4中戦車にもそのまま引き継がれることとなった。砲郭以外にもドライブシャフトが戦闘室内を貫通し、操縦手は変速機の上にシートを設けて座るなど、急造品ゆえの洗練されてない箇所も見られる。第二次世界大戦参戦前でありながらも大量生産が開始され、イギリス軍へ供与されると共にアメリカ軍への配備が進められた。
新機軸として、75mm・37mm 砲ともにウェスチングハウス社製のスペリー式ジャイロスタビライザー(砲安定装置)が装備された。試作車で取り付けられたものだが、トラブルが多発したため初期量産型では搭載されなかった。これは現代のように高精度の走行間射撃が可能なものではなく、走行しながら目標に対し砲を素早く指向することができる程度で、扱いが面倒であるとして使用しない兵も多かった。なお砲郭内に装備された75mm砲はルノーB1同様、上下にしか砲身が動かないとの誤解も多いが、左右15°程度なら射角変更も可能である。銃塔型キューポラの7.62mm機関銃には、他の多くのアメリカ戦車の車体前方機銃同様に照準機が付いておらず、ペリスコープから曳光弾や弾着を確認しながら射撃した。
1941年4月の生産開始から1942年12月の生産終了までに全型合計6,258輛が生産され、砲塔を積み上げたために車高が高く、75mm砲をダッグインして使用不可能などの不利があるものの、M4戦車配備までのストップギャップとしての役割は充分に果たしている。
戦訓によってウィークポイントだった車体側面ハッチの廃止。より長砲身の40口径 M3 75mm戦車砲(M4戦車の主砲と同じ砲)を搭載する等の改良も随時行われている。

&size(18){開発の経緯};
M3中戦車は北アフリカの砂漠でイギリス軍の巡航戦車として活躍した。2ポンド砲や6ポンド砲を装備したイギリス製巡航戦車は榴弾を発射できず、これは深刻な弱点だった。強力な榴弾を発射でき、かつ対戦車戦闘でも有効な75 mm 砲を装備したM3中戦車は大変よろこばれた[1]。同時期に導入されていたクルセーダー巡航戦車よりも機械的信頼性が高かった[1]。
しかし37 mm 砲と75 mm 砲と二つの砲を備えるのは車長の指揮の上で煩わしかったし、車体に主砲を装備する配置は理想とはかけ離れていた。砂漠の戦闘で高い車高は良好な視界を得ることができたが、敵に対しての標的にもなった。75 mm 砲の搭載位置の関係で車体を地形に隠すハルダウンを行うことも出来なかった[1]。
あらゆる面で優れたM4中戦車(シャーマン)がイギリス軍に配備されるようになったが、1943年5月にドイツ軍が北アフリカから撤退するまで対戦車戦闘に用いられた。
M3中戦車はオーストラリア軍に回され、太平洋の戦場で使用された。その後もイギリス軍に残った車輛はビルマ戦線での反攻に投入され、まともな対戦車火器を持たない日本軍相手に威力を発揮した。
また、レンドリース法によりソビエト連邦にも送られた。もっともソ連では『7人兄弟の棺桶』などと呼ばれ、後のシャーマン戦車に比べ評判は良くない。(それでも乗り心地や故障の少なさという点ではT-34より好まれた。)
アメリカ軍はトーチ作戦やその後のチュニジアの戦いでM3中戦車を用いていたが、実戦経験の不足もあり、ドイツアフリカ軍団のIV号戦車やティーガーI重戦車の前に大きな損害を出してしまった。中戦車として実戦投入されたのはシチリア島上陸作戦やイタリア戦初期の頃までで、M4中戦車が戦列化するとともにその価値は失われていった。その後は訓練用に用いられたり、本車をベースにM31戦車回収車やM33装軌式牽引車等に改造され戦争終結まで使用された。
M31やM33は概ね好評で、M4やM5をベースとした戦車回収車や牽引車が開発・配備された後も、それらの車両より使い勝手が良かった上、支援車両としては十分過ぎる装甲を有していた為、砲兵の中にはM33牽引車に固執する部隊もあったという。

#region(ジェネラル・グラント)

フランスで大量の戦車を失っていたイギリスはアメリカにイギリスの戦車を生産させたいと考えたが、M3中戦車を希望に沿って改修した車両をイギリス軍向けに製造してもらうことで合意した。この設計はイギリス人のチームが行った。
イギリス軍では車長近くの砲塔内に車載無線機を搭載することを重視したため、これのために砲塔後部に張り出しを設けることになった。アメリカ軍向けでは砲塔上部に7.62 mm 機関銃を搭載した全周旋回可能な銃塔型キューポラがあったが、イギリス軍向けでは単純なハッチに変更された。細部の設計が終了して、最初の試作車は1941年3月13日に完成し、最初のイギリス軍仕様の砲塔を搭載したM3中戦車が完成したのは1941年7月だった。砲塔以外の違いとして操縦手用のペリスコープや全周型サンドスカート、新型履帯などが生産中に導入された[1]。
イギリス政府はアメリカ国内の数社と2,085輌の生産契約を行なったが、1941年3月のレンドリース法の成立に伴い、この契約はアメリカ政府が肩代わりすることになった。
イギリス型のM3中戦車はボールドウィン、プレスド・スチール・カー・カンパニー、プルマン・スタンダード・カー・カンパニー製だったが、戦闘での損失率が高かったために生産が追いつかず、アメリカ軍仕様のM3中戦車も受領した。これはジェネラル・リーと呼ばれた。

リーのイギリス仕様として、機銃塔を外し代わりにグラントのハッチを装備した通称「リー・グラント」も存在した。しかし、実際はイギリス軍部隊では砲塔の違いにかかわらずひとくくりに「グラント」と呼ぶのが普通だった。グラント型砲塔の生産数は1660基ほどで、大半はM3の車体に搭載されたグラントIとして完成したが、少数ながらM3A2、M3A3、M3A5ベースのグラントも作られた。なおM3A1とM3A4ベースのグラントは実際に製造されていないが、型式番号は設定されている。

#endregion

#region(バリエーション)

M3(Lee Mk.I / Grant Mk.I)
最初に量産されたタイプで、リーは生産時期によって 75 mm 砲を長砲身にした新型に換装、砲安定装置の搭載、車体側面のハッチの溶接固定または廃止、ベンチレーターの追加などの改良が行われた。1941年6月から本格的に量産開始され、翌年8月までにリーはクライスラー・デトロイト戦車工廠とアメリカン・ロコモーティブ社で3,923輌が、グラントはプレスド・スティールカー社とプルマン・スタンダードカー社で1,001輌が生産された。

[[M3A1(Lee Mk.II)>戦車/★3/MediumM3A1リー]]
M3の車体上部を鋳造一体式にしたタイプ。1942年2月〜8月までにアメリカン・ロコモーティブ社で300輌が生産され、レンドリースや実戦使用は無く、全てアメリカ国内で訓練用に用いられた。エンジンは基本的にR975であるが、試験的にギバーソン・ディーゼルエンジン搭載した型も28輌ある。

M3A2(Lee Mk.III)
M3のリベット留めの車体を、軽量化のために車体全体を溶接接合に変更したタイプ。しかし製造メーカーであるボールドウィン・ロコモーティブ社のラインがM3A3に移行、1942年1月から3月までのわずか12輌のみで生産終了した。数輌だけ作られオーストラリアに供与されたグラント砲塔型を除き、アメリカ国内で訓練用に用いられた。

M3A3(Lee Mk.IV / Lee Mk.V)>戦車/★3/MediumM3A3リー]]
M3が搭載していた練習機用の空冷星型エンジンR975の供給不測を予想して、ジェネラルモータースの6046型直列6気筒2ストロークディーゼルエンジンを二基組み合わせたものに換装した。車体はM3A2と同様に溶接車体タイプとなっている。A5と併行してボールドウィン・ロコモーティブ社で1942年3月〜12月の間に322輌が生産され、126輌が(うち49輌がイギリスに)レンドリースされた。

M3A4(Lee Mk.V/)
A3やA5同様の理由で、バス用に生産されていた直列6気筒ガソリンエンジン5基を星形に束ねて連結し複列30気筒液冷ガソリンエンジンとしたクライスラーA57マルチバンクエンジンに換装し、それに合わせ車体が延長されたタイプ。クライスラー・デトロイト戦車工廠で1942年6月〜8月の間に109輌が生産され、全てアメリカ国内で訓練用に用いられた。
M3A5(Grant Mk.II)
M3A3と同様に6046型ディーゼルエンジンを二基搭載しているが、工場の溶接技術が未成熟であったためリベット接合に戻り、先に量産開始されたタイプ。A3と併行してボールドウィン・ロコモーティブ社で1942年1月〜12月の間に591輌が生産され、208輌が(うち185輌がイギリスに)レンドリースされた。

#endregion

#region(派生型)

回収車や牽引車として改造された車両の戦車砲は撤去されているが、敵を威嚇するために砲郭部へパイプで作られたダミーの75mm砲を備えた車両が多い。なお、このダミー砲郭はハッチとして開閉可能で、車体前部からの出入り口として重宝された。

M31戦車回収車
武装を撤去しクレーンとウィンチを装備した戦車回収車型。

M33装軌式牽引車
M31より砲塔とクレーンを撤去した重砲牽引車。

Grant ARV
イギリス軍がグラント中戦車を改造して独自に製作した戦車回収車型。75mm砲と37mm砲塔を撤去して回収機材を搭載したもの。

ARV(Aust)
オーストラリア軍がリー・グラント中戦車を改造して独自に製作した戦車回収車型。武装を撤去してウィンチと回収機材を搭載したもの。

[[M7自走砲(プリースト)>戦車/★1/M7プリーストHMC]]
M3の車体に露天式に105mm榴弾砲を搭載した自走砲型。

カンガルー装甲兵員輸送車
M7自走砲の砲塔を撤去した12名の兵員を輸送することが出来る装甲兵員輸送車。

M12自走砲
M3の車体に露天式に155mmカノン砲を搭載した自走砲。

T24自走砲
戦車駆逐大隊用の本格的戦車駆逐車(対戦車自走砲)としてボールドウィン・ロコモーティブ社で開発された自走砲型。
M3中戦車の砲塔と車体上面装甲板と75mm砲を撤去し、敵を逸早く発見するためのオープントップの戦闘室に3インチ(76.2mm)高射砲M1918をほぼそのまま搭載している。車体右前面の主砲があった部分には装甲板が備えられた。その他の部分についてはM3中戦車と同様の構造である。車高の高さが問題視されたため、改良型のT40が開発されることとなった。

T40自走砲(M9自走砲)
T24で指摘された問題を改善するべく、前面装甲板を切り欠いて主砲をより低い位置に据え付けた改良型。主砲も駐退機の強化などより車載に適するように改造され、防循も新たに装備された。
1941年12月に試作車が完成、1942年4月にM9自走砲として暫定制式化された。しかし低機動力と主砲の旧式化が問題視されたため、大量生産されることなく1942年8月には開発が中止された。

ラム巡航戦車
M3中戦車のライセンス生産を計画したカナダが独自にM3を改設計し、単一の砲塔を搭載する戦車として国産した型。

セクストン自走砲
ラム巡航戦車の車体にQF 25ポンド砲を搭載した自走砲型。

#endregion

[[Wikipedia日本語版「M3中戦車」より転載>https://ja.wikipedia.org/wiki/M3%E4%B8%AD%E6%88%A6%E8%BB%8A]]

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TIME:"2017-12-07 (木) 00:03:26" REFERER:"http://clashofpanzers.wikiru.jp/index.php?cmd=edit&page=%C0%EF%BC%D6%2F%A1%FA3%2FMediumM3%A5%EA%A1%BC"

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