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基本情報 Edit

画像名前九七式中戦車 チハ
97chiha.jpg日本
レアリティ★4
出撃数2
編成コスト2340
戦車タイプ中戦車
優先ターゲット司令本部
攻撃範囲単体
戦車紹介
八九式中戦車では速度不足となったため新しい中戦車が必要となり開発された。
日本では開発の際に競合試作となった唯一の戦車である。

 

全長5.52(m)全高2.23(m)
全幅2.33(m)重量15.0(t)
最大装甲25(mm)乗員4人
懸架方式独立懸架およびシーソー式連動懸架
主砲九七式五糎七戦車砲
副武装九七式車載重機関銃

ステータス Edit

火力装甲射程速度連射
8161481045177

ゲームにおいて Edit

ゲームにおいての役割、使い勝手などの評価をレビューする項目です

元ネタ Edit

九七式中戦車 チハは、1930年代中後期に開発・採用された大日本帝国陸軍の中戦車。
1938年(昭和13年)から1944年(昭和19年)にかけて総計2,123輌が生産され、九五式軽戦車 ハ号とともに第二次世界大戦における日本軍の主力戦車として使用された。

名称
「チハ」とは「3番目(イ、ロ、ハ)に開発された中戦車(チ)」である事を表すコードネーム(計画名称・秘匿名称)である。このカタカナ2文字の命名法は本車の開発時から適用されたものであり、八九式中戦車にもさかのぼって命名されている(甲型「チイ」、乙型「チロ」)。そのため「チハ車(ちはしゃ)」とも表記・呼称された。
また、日本陸軍の軍隊符号で中戦車は「MTK」(軽戦車「LTK」、重戦車「STK」等)であるため、陸軍内部における文書等一次資料においては「97MTK」や「97式MTK」といった表記も使用されている。

概要
1936年(昭和11年)、日本陸軍において歩兵の直接支援のための戦車として開発が開始された。新型中戦車の開発に当たっては速度性能、車体溶接の検討、避弾経始(原文表記では緩角傾始)を考慮した車体設計など防御性能の向上が求められたが、当時の道路状況、架橋資材その他の状況から車両重量増が最大のネックとなった。重量増を忍び性能の充実を求める声と、防御・速度性能を忍んでも重量の逓減を優先する意見の双方があり、双方のコンセプトに沿った車両を試作し比較試験することとなった。主砲についてはどちらも八九式中戦車の主砲と同等とされた。
陸軍技術本部は、前者を甲案(後のチハ車。予定重量13.5トン)、後者を乙案(後のチニ車、予定重量10トン)として設計を開始した。甲案は砲塔に2人が配置され、八九式中戦車と同じく車載機関銃は2挺とされた。対して乙案は砲塔は1人用に小型化され後部機関銃は省略、車載機関銃は車体前面の1挺のみとされた。甲案(チハ車)の砲塔自体の容積は八九式中戦車とほぼ同等であり、戦闘室容積も同様であるが、砲塔中径(ターレットリング径)には余裕を持たせており、将来の主砲の大口径化による砲塔換装が考慮されていた。
設計案の検討時点では、参謀本部側は甲案の12トン程度への軽量化を要求したものの、技術本部からの不可能との回答を得て、性能差を忍び乙案を大量配備する方針に転換した。性能差は配備数の増加で補えるという意図であるが、同時に甲案の開発継続も要望してもいる。これに対して陸軍戦車学校側は2人用砲塔の甲案が絶対的に優位としていた。装甲・速度性能に関しては乙案でも許容可能だが、戦闘力発揮のためには2人用砲塔が必須との主張であった。一方、新戦車の開発は急がれており、結果的に妥協点を見出せないまま双方を試作して検討する形になってしまう。この混乱が後の試製九八式中戦車チホの開発の一因とされる。
1937年6月にチハ試作車2輌が三菱重工により完成した。チニ試作車は1輌が陸軍造兵廠大阪工廠により試作された。チハ試作車は予定重量13.5トンに収まったが戦車学校の追加修正を加えた結果、最終的に重量は15トンとなった。チニ試作車は予定重量以下の9.8トンに収まった。
チニ車とチハ車の試験の結果はどちらもおおむね良好とされたが、最終的にはチハ車が制式採用され、チニ車は試作のみで中止されることになった。比較的高価、かつ大重量な本車がチニ車を抑えて採用されたのは支那事変により軍事予算全般に余裕ができたのも一因とされる。
生産には三菱重工、相模陸軍造兵廠、日立製作所の他、日本製鋼所、日野重工、小倉陸軍造兵廠、南満陸軍造兵廠(奉天)などが関わっている。

開発
各国の陸軍が採用する戦車の多くがガソリンエンジンだった時代に、空冷ディーゼルエンジンを搭載していることが大きな特徴である。ディーゼルエンジンは燃料に揮発性の高いガソリンでなく軽油を使用するため、爆発的な火災発生の危険が少なく、また高いオクタン価のガソリンの入手に制限があるなど燃料事情が悪い当時としては、ガソリンを必要としないことは調達・補給の上で非常に有利であった。さらに空冷方式の採用については、想定戦場である満州において「水冷する方式は冷却水の補充や凍結による故障の心配があるので、空冷式を採用することができれば理想的である」と見做され、また、冷却よりもエンジン起動時の保温のほうがむしろ課題であったという経緯があった。しかし空冷ディーゼル方式でガソリンエンジンと同等の出力を得るには大型化せざるを得ず、車体全体に対する機関部の占有率がその分大きくなる欠点もあった。

車体前方右寄りに砲塔が設置され、主砲として九七式五糎七戦車砲(口径57mm)を、機関銃は九七式車載重機関銃(口径7.7mm)を砲塔後部と車体前方に搭載した。本車の出現当時の外国製戦車(初期のIII号戦車やBT-5など)と比較して装甲厚や主砲口径などは同程度であるが、もともと対戦車戦闘能力を主眼にした設計ではなく、その想定した敵は37mm級の対戦車砲や歩兵砲、機関銃を装備した歩兵及び陣地であり、その後の重装甲・重武装化した新型戦車には対応することが難しかった。主砲である九七式五糎七戦車砲は、八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲の改良型で、同砲と弾薬筒は共通である。戦訓により不備とされた面の多くが改良されたが、榴弾威力及び装甲貫通力の面で威力向上は考慮されなかった。通常交戦距離で九四式三十七粍砲による九四式徹甲弾の射撃に耐えられることを基準とした装甲(最大25mm)は計画策定時は十分と看做されたものであったが、日中戦争(支那事変)における中国国民党軍が装備したPaK 35/36やソ連軍の19-K 45mm対戦車砲には貫通されている。鹵獲砲を用いた射撃試験では、前者は車体側面下部(25mm厚)に対して命中角90度・射距離300m、後者は砲塔(25mm厚)に対して命中角80度・射距離1,500mの条件で貫徹し得ることが確認された。この結果は開発中だった一式中戦車以降の戦車に反映されたが、本車に関しては装甲の増厚、変更などの改善はほとんど行われず、現地部隊などで少数が改造されるに留まった。
しかし、日中戦争における中国国民党軍やゲリラは対戦車砲や戦車、野砲や山砲など強力な対戦車兵器の保有数が部隊規模に比較して少なく、また戦意も高くなく、これらの敵に対して本車など日本軍の戦車・装甲車は有効な兵器であった。また、太平洋戦争緒戦の各南方作戦では、マレー作戦を筆頭に自動車化歩兵・砲兵・工兵・航空部隊との協同戦である電撃戦が行われ、連合国軍が強力な装甲戦闘車両を多く保有していなかったこともあり活躍している。但し、本車は歩兵直協が本来の目的であるため対戦車戦での不利は否めず、ビルマ攻略戦における局地戦で対峙したM3軽戦車との戦車戦では苦戦を強いられた。
本車を含む戦車の対戦車能力不足については陸軍も認識しており、本車の次に計画されたチホ車からは口径を47mmに減じる代わりに初速を増大した試製四十七粍戦車砲(後の一式四十七粍戦車砲)を搭載していた。チホ車はまたもや二種類の試作車を比較検討するなど開発が遅延し開発が中止されたが、1940年9月、本車にチホ車の試作砲塔ごと試製四十七粍戦車砲を換装した車両が試験されている。その後改修砲塔の試作・試験が繰り返された結果、(俗称・通称「九七式中戦車改」「新砲塔チハ」)が開発された。この新砲塔チハは太平洋戦争開戦までに十分な数が揃わず戦力化できなかったが、M3軽戦車の出現に対応すべく1942年(昭和17年)4月、フィリピン攻略戦における追撃戦に実戦投入された。戦車第7連隊に編入された同車を装備する臨時中隊(松岡隊)が、同月7日に友軍爆撃機と共同の下、M3軽戦車3輌撃破の戦果を残している。以降、九七式五糎七戦車砲搭載型と並行する形で一式四十七粍戦車砲搭載型の量産が進められ、攻撃力ではM3軽戦車には優越するようになったものの、戦争中盤からアメリカ軍は75mm砲を装備したM4中戦車を投入したため、その後の対戦車戦では苦戦を強いられた。
歩兵戦車としては、登場時は列強の戦車と比べても標準的な性能であったが、後継車両の開発が遅延を重ねたため、旧式化した後も本車を使い続けざるを得なくなり、また想定していなかった対戦車戦にも用いられたことで苦戦を強いられた戦車である。本車の場合のみならず、アメリカ・イギリスと比較して資源が不足し技術力に劣り、自動車産業の発展に出遅れていた当時の日本では、自動車生産力の弱点が後の兵器開発に深く影響を及ぼす事になった。

攻撃力
57mm砲搭載型
本車には主砲として九七式五糎七戦車砲が搭載された。この砲は八九式中戦車に搭載された九〇式五糎七戦車砲の改良型で、砲そのものの性能は同等であるが機能及び抗堪性を向上させている。尚、「発射装薬の改善と砲尾部の改修により初速が350m/sから420m/sとなった」という記述が散見されるが、仮制式制定段階での砲としての性能は九〇式五糎七戦車砲と同一である。発射速度は標準10発毎分であるが熟練した戦車兵は15発を発砲した。
砲塔内は2名で、砲塔左側に砲手兼装填手が、砲塔右側に車長が位置した。
本砲の砲本体重量は107kg、砲架は47kgである。九〇式榴弾の弾薬筒重量は2.91kg、九二式徹甲弾で3.13kg、1942年中頃以降に登場した新型の一式徹甲弾で3.25kgであった。また本砲用のタ弾(成形炸薬弾)として、戦争後半に生産された三式穿甲榴弾(弾頭重量1.8kg、装甲貫徹長55mm。)があった。砲架に付属されている肩付け用の器具で砲手に担がれる形で指向照準され、俯角・仰角操作、防盾旋回範囲での左右への指向は人力による。砲塔はハンドル操作のギアによって旋回する。この方式は日本では九〇式五糎七戦車砲から採用され、以後各種戦車砲に採用された。
肩付け式の砲の長所は目標への追従性が高く、行進射(動きながらの射撃)が可能な点であった。日本陸軍の戦車兵(機甲兵)は低速の行進射、機動・停止・機動の合間に行う躍進射を徹底して訓練し、動目標に対しても非常に高い命中率を発揮した。熟練度の一例をあげるならば、八九式中戦車の搭載した九〇式五十七粍戦車砲の半数必中界は、距離500m、行進射、中程度の技量という条件下で、上下155cm、左右83cmであった。日本軍戦車隊が交戦距離と想定していたのは500m程度の近距離であるにせよ、スタビライザーと火器管制のない戦車で行進射を行い得たのは戦車兵の熟練度を示すものである。
砲本体、弾薬などを一人で操作できうる程度の軽量の兵装にすることで、砲手が照準操作しつつ片手で砲弾を装填することが可能となり、砲手一人でも速射が可能な点も肩付け式の利点である。なお、M3軽戦車の戦車砲も肩付け式の砲であった。
本砲の榴弾威力は、九〇式榴弾の場合で弾頭炸薬量250g、九二式徹甲弾でも弾頭炸薬量103gと多く、徹甲弾(名称は徹甲弾だが、実際は徹甲榴弾(AP-HE))であっても榴弾威力を重視した設計となっていた。これらは同時期採用された九一式手榴弾(炸薬量65g)の2倍弱 - 4倍強程度の炸薬量であった。
装甲貫徹能力は九〇式五糎七戦車砲と同程度であり、射距離300mで26mm、500mで23mm、1000mで20mm程度である。対戦車戦闘は想定していない砲であり、あくまでも軟目標やトーチカ銃座破壊のための砲であった。1942年4月、ビルマのラングーンにて戦車第一連隊が鹵獲M3軽戦車に対する射撃試験を実施したところ、側面でさえ射距離200mはおろか射距離100mでも貫通はできず、3輌から5輌が集中射撃を加えたところようやく装甲板が裂けた、という程度の威力しかもっていなかった。そのため戦車第一連隊ではM3軽戦車と交戦する際には榴弾による射撃に切り替えられた。M3軽戦車はリベットやボルト止め接合による装甲であったので榴弾射撃は効力があり後の交戦でM3軽戦車の擱座・撃破にも成功している。
なお本車の九七式五糎七戦車砲、及び八九式中戦車の九〇式五糎七戦車砲の砲身を互換性のある長砲身37mm戦車砲(一式三十七粍戦車砲を基に開発)へと換装することが検討されており、1942年2月、この試製三十七粍戦車砲を本車に搭載して射撃試験が行われている。これは本車や八九式中戦車の旧式化した短砲身57mm戦車砲を、砲身のみ換装することにより一式三十七粍戦車砲と同等威力の戦車砲へと改修することを企図したものであった。この試製三十七粍戦車砲(初速約804m/s)は、一式三十七粍砲や一式三十七粍戦車砲と弾薬(弾薬筒)は共通であり互換性があった。

防御力
本車は主要部に浸炭処理された表面硬化鋼(第二種防弾鋼板)を使用し、前面装甲の厚さは25mm、防盾50mmである。側面は25mmから20mm、後面20mm、上面10mm、底面8mm。25mmという厚みは、口径37mm程度の軽便な火砲の近距離からの射撃に耐えるものとするため、九四式三十七粍砲を使用した試験を経て決定されたものであり、この際には150mの距離からの射撃にも耐えて合格とされた。しかし本車の採用後、中国軍から鹵獲した九四式三十七粍砲よりも貫通威力の高い37mm対戦車砲を使用した射撃試験の際には、車体側面下部(25mm厚)に対して命中角90度・射距離300mの条件では貫通されている。
本車の組み立ては、主に砲塔と車体がリベット留めとなっているが、砲塔上面・車体上面の一部や車体底板と側板の接合には溶接が用いられた。車体形状を構築するフレームにリベットで装甲を接合した車体は被弾時に鋲がちぎれて飛び、乗員を殺傷することが問題視されていた。そのため、九七式の後継である一式中戦車 チヘでは溶接構造に変更している。
本車の燃料タンク(燃料槽)は機関室下部に配置された。被弾時の火災による損害を最小限にする設計上の配慮と考えられる。この設計は一式中戦車など後に開発された戦車にも受け継がれている。燃料タンクの搭載容積は246Lであった。

機動力
エンジンは社内記号「三菱SA一二二〇〇VD」(チハ機とも呼ばれる)が採用された。「S」は「ザウラー式」、「A」は「空冷 Air-Cooled」、「一二二〇〇」は「12気筒200馬力」、「V」は「V型」、「D」は「ディーゼル Diesel」を意味する。繋げると「三菱ザウラー式空冷12気筒200馬力V型ディーゼル」という意味になる。これは、九五式軽戦車に搭載された「三菱A六一二〇VDe」(空冷直列6気筒)をV型12気筒化し、三菱重工業が1937年(昭和12年)に提携したスイスのザウラー(Saurer)社の技術を導入した物で、複渦流式DI(直接噴射式)、ボア X ストローク=120mm X 160mm、4ストローク、最大出力は170馬力/2,000回転(定格150馬力)、重量は1.2t、さらに変速機と操行装置の重量を加えると全部で2.5tにもなった。V型エンジンにしたことで高さは抑えられたが、大重量大容積の割に出力が低いエンジンであった。
当時の直接噴射式は圧力が高く、それに起因したトラブルが燃料噴射装置(燃料噴射ポンプ)などに多発しやすく、また騒音や排煙もひどかった(排煙に関してはエンジンの「油上がり(オイル上がり)」が原因とされ、原乙未生などにより整備方法の改善等の対策が行われている)。潤滑方式はドライサンプで、車体中央部にオイルクーラーが設けられた。エンジンの左右シリンダー列の外側に各2個ずつ取り付けられたファンによって機関室上面の吸気窓から吸入された冷却用空気は、前期型車体では車体後部左右側面の遮風板付き排気窓から車外に排出される構造になっていたが、後期型車体では車体後部左右側面の排気窓は廃され、車体後部左右袖部裏側に移設された排気窓から排出される構造に改められ、防御力と冷却効率の向上が図られた。消音器(マフラー)は機関室の両側面後方のフェンダー上に1つずつの計2つ配置されていた。
量産体制も整っていたとはいえず、三菱の他に日立製作所など複数メーカーに製造が分担された結果、制作されたエンジンは細部の仕様・部品が異なるという事態が生じた。また異なる燃料噴射装置(三菱製エンジンは三菱製かボッシュ製、日立製エンジンは日立製の燃料噴射装置を使用)が取り付けられていると互換性は無く、損傷戦車の使えるパーツをつなぎ合わせての再生が望めない。これらは補給、補充が不足がちな日本軍にとって大きな問題になった。また戦況により十分な試験研究がなされないまま制式化され、信頼性を十分に持たせることができなかった。これらの問題は、日本が戦車のディーゼルエンジン化を推進し始めてわずか数年程度と間もない頃であり、1937年時点では開発経験が少なかったことにも起因する。
上記の問題に加えてザウラー式の直接噴射式ディーゼルエンジンは高価であった。また直接噴射式には(予燃焼室式と比べて)燃料の汎用性に関する問題もあった。そのため本車以降に開発された戦車の搭載機関は、直接噴射式でなく問題点を改善した予燃焼室式の統制型ディーゼルエンジンなどが採用されている。
1941年7月に陸軍技術本部が調整した「試作兵器発注現況調書」によれば、試作兵器として九七式中戦車に統制エンジンを搭載する改修を行う記述がある。この改修車両の希望完成年月は1941年8月となっている。なお統制エンジンは九七式中戦車を流用した装甲工作車 セリに既に搭載されていた。
本車は、極寒地域における行動も考慮されていた。1938年(昭和13年)12月〜翌年1月にかけて北満州における冬季試験(北満試験)が行われた際には、最低気温マイナス32〜42度という気候状況下、さらに覆帯に防滑具(鋲)を装着した状態であったが、平坦路上においてエンジン回転数2,000rpm、時速40キロを容易に発揮できたと記録されている。
1942年5月6日、戦車第7連隊に編入された新砲塔チハがフィリピン攻略戦に従軍、鹵獲したM3軽戦車と共に海岸から上陸を試みたが、海岸前面は45度以上の傾斜で容易に登坂ができなかった。砲爆撃の崩れを利用したものの前進は難航、工兵隊が障害物を爆破したが失敗した。M3軽戦車で登坂を試みたところ成功したため、M3の牽引によって新砲塔チハを引き上げるという事態になった。
戦車第1連隊、戦車第6連隊は緒戦のマレー作戦において長駆進撃を行い、1,100kmを58日で移動。また、1944年(昭和19年)後半に行われた大陸打通作戦では、戦車第3師団が1,400kmを30日で移動している。これは255輌が参加、うち行動不能車両は約30%に達した。第1装軌車修理隊はこれらの戦車の回収と修理に活躍した。行動不能に陥った理由は、それ以前の作戦で酷使された車両を作戦に投入していること、部品の融通がきかないことなどがあげられる。しかし、機械的信頼性に関しては優れない点もあったものの、作戦を達成した事実は乗員、整備員の連携や技量の高さを示している。

通信
戦車の組織運用に重要な装備として無線(無線電話)がある。当時の戦車では指揮官車しか装備していないことも多かったが、九七式中戦車は当初から無線装置を標準装備とした。57mm砲搭載型では砲塔の上面についている環状のものがアンテナであり(通称「鉢巻アンテナ」)、新砲塔チハでは位置が変更され車体から伸びる直立式アンテナとなった。
日本陸軍の車載無線機は大きく分けると九四式、九六式、三式無線機などがあるが、1930年代中頃に採用された九四式無線機以降の無線機の音声通話に関しては、基本的に無線手は首に咽喉送話器(咽頭マイク)をベルトで巻きつけるか、送話器(マイク)を口に当てて送話を行ない、耳にあてた受話器(ヘッドセット)で受話を行なった。
かねてより航空機や陸上車両などにおいてエンジンなどの電装系から発生する雑音電波が搭載無線機の送受信を阻害することが問題となっていた。そのため陸軍技術本部は1930年代末より雑音電波防止(電磁遮断・電磁シールド)対策の研究を行い、各電装品に対して防止器の取り付けなど防止方法を開発、全軍用車両に雑音電波防止装置を装着している。

+  チハの戦歴
+  後継車両・派生型

Wikipedia日本語版「九七式中戦車」より転載

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最新の20件を表示しています。 コメントページを参照

  • こいつが出たんで喜んで★3の四号戦車と入れ替えたんだが、やたらと撃破される。
    不思議に思って性能比較したら四号戦車のほうが強かった。 -- 2017-05-19 (金) 16:26:14
  • まず作るのに苦労して、さらに戦線投入にも苦労した挙げ句、外国の戦車に質、量ともに圧倒される。せんしゃ -- 2017-05-20 (土) 09:26:30
  • 帝国陸軍最強の戦車はⅯ3だからね、しょうがないね。 -- 2017-05-20 (土) 11:28:20
  • PS2の「THE戦車」のチハだろこいつ、連射高くて強い
    しかし速度と射程が低いから速度の高い隊員乗せないと落後してニートになりやすい -- 2017-05-23 (火) 19:30:14
  • 大和魂の為にも欲しいんだが出ない。栗林一人じゃ出ないのだろうか?レアストーン節約のため一人で回してのだけれども。 -- 2017-07-05 (水) 17:58:51
  • 重戦車並のコストどうにかなりませんか?半分いやせめて2/3にしてほしい -- 2017-09-01 (金) 23:07:42
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Last-modified: 2017-09-29 (金) 18:29:58