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基本情報 Edit

No.009プロフィール
山下奉那立ち絵.png名前山下奉那
日本
レアリティ★1
好物洋服
得意戦車タイプ中戦車
キャラ紹介
 温厚で質実剛健だが部下にキツくしかれない優しさから、いじられキャラになりがち。
戦闘では持ち前の勇猛さと、得意の「イエスかノーか」の問答による戦況判断で好成績を叩き出す。
戦略目標である資源地帯の占領に至るために行った攻略戦の際には、敵国よりもわずかに優勢な状況に加え、
制空権や戦車、歩兵戦術等で優位に立ち、近隣の飛行場を守るために構築された要塞地帯を突破した。
結果2倍を超える兵力差を覆し、難攻不落と言われていた要塞を10日足らずで攻略することに成功した。
その勇猛果敢さから、山下は「マレーの虎」と評された。「マレーの虎」と評されてからは虎のアクセサリーなどを
プレゼントされ、貰ったものは無下にできない性格上、納得のいっていないまま身につけている。
真面目で聡明な性格と身に付けている装飾品のギャップが仲間に親しまれる理由のようだ。
中川からは可愛い虎の人形を羨望の眼差しで見られており、実はいくつかプレゼントしている。
パーシバルを人形で驚かせてしまった事があり、謝りたい一心から近づくといつも全力で逃げられてしまう。

ステータス&スキル Edit

ステータス
火力装甲速度連射
Lv12521124
Lv25121931252
Lv50
アクティブスキル
名前Lv効果
マレーの虎I敵施設にダメージ
対象:単体
威力:小
II敵施設にダメージ
対象:単体
威力:小
III敵施設にダメージ
対象:単体
威力:小
IV敵施設にダメージ
対象:単体
威力:小
V敵施設にダメージ
対象:単体
威力:小
VI敵施設にダメージ
対象:単体
威力:小

ボイス Edit

+  セリフ一覧

ゲームにおいて Edit

ゲームにおいての役割、使い勝手などの評価をレビューする項目です

元ネタ Edit

山下 奉文(やました ともゆき、1885年(明治18年)11月8日 - 1946年(昭和21年)2月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将、位階勲等は従三位勲一等功三級。高知県長岡郡大杉村(現大豊町)出身。

経歴
1885年(明治18年)11月8日、開業医である父・佐吉、母・由宇の次男として高知県に生まれる(兄・奉表は海軍の軍医となり最終階級は海軍軍医少将)。
海南中学校、広島陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校(第18期、兵科・歩兵)卒業。見習士官を経て1906年(明治39年)6月26日に陸軍歩兵少尉に任官(広島・歩兵第11連隊附)。1916年(大正5年)11月25日には陸軍大学校を優等の成績で卒業(第28期、御賜の軍刀組)。
参謀本部部員、陸軍省軍務局課員を務めるとともに、スイス・ドイツ・オーストリアにも駐在。帰国後は歩兵第3連隊長、陸軍省軍事課長を歴任し、1934年(昭和9年)8月1日に陸軍少将へ昇進、翌1935年(昭和10年)には陸軍省軍事調査部長となる
妻は永山元彦陸軍少将(騎兵第2旅団長)の長女・久子。永山少将が佐賀県の出身で、宇都宮太郎・真崎甚三郎・荒木貞夫へとつながる、いわゆる「佐賀の左肩党」の系譜に属したため、女婿である山下も皇道派として目されるようになった。1936年(昭和11年)2月に発生した二・二六事件では、皇道派の幹部として決起部隊に理解を示すような行動をとった[注釈 1]。山下は決起部隊の一部の将校が所属していた歩兵第3連隊長を以前務めていて彼らと面識があり、同調者ではないかと周囲からは見られていた。このため、山下宅の電話は事件前から逓信省と陸軍省軍務局(事件後は戒厳司令部)によって傍受・盗聴を受けている。
決起部隊が反乱軍と認定されることが不可避となった折に、山下の説得で青年将校は自決を覚悟した。このとき山下は陸軍大臣と侍従武官長を通じて、彼らの自決に立ち会う侍従武官の差遣を昭和天皇に願い出たが、これは昭和天皇の不興を買うことになった。この件に関して『昭和天皇独白録』には「本庄武官長が山下奉文の案を持ってきた。それによると、反乱軍の首領3人が自決するから検視の者を遣わされたいというのである。しかし、検視の使者を遣わすという事は、その行為に筋の通ったところがあり、これを礼遇する意味も含まれていると思う。赤穂義士の自決の場合に検視の使者を立てるという事は判ったやり方だが、背いた者に検視を出す事はできないから、この案を採り上げないで、討伐命令を出したのである」とある。また『木戸幸一日記』にも「自殺するなら勝手になすべく、このごときものに勅使なぞ、以ってのほかなり」とあり、青年将校を擁護する山下に対し、天皇や元老の評価は極めて低かった。事件収拾後、山下は軍から身を引く覚悟も固めたが、川島義之陸軍大臣が慰留につとめ、朝鮮・竜山の歩兵第40旅団長への転任という形で軍に残った。しかし、事件の影響で陸軍の主流派コースからはずれ、陸軍省や参謀本部・大本営のエリートポストにつくことはなかった。このように二・二六事件は山下の人生に最後まで大きなマイナスをもたらすことになった。
日中戦争(支那事変)勃発間もない、支那駐屯混成旅団長時代の1937年(昭和12年)11月1日には陸軍中将へ昇進。1939年(昭和14年)9月23日、大阪第4師団長。
1940年(昭和15年)7月22日には、陸軍航空部隊の要職である航空総監兼航空本部長に就任。また、1941年(昭和16年)1月8日から4ヶ月間、同盟国ドイツへの視察団(陸軍遣独視察団)の団長として訪独。ドイツの先進兵器を調査し情報を収集するとともに(超短波警戒機乙)、アドルフ・ヒトラー総統との面談や、戦車戦戦術の専門家であったハインツ・グデーリアン上級大将との懇談を果たしている。

マレーの虎
太平洋戦争(大東亜戦争)開戦を控えた1941年11月6日には第25軍司令官を拝命しマレー作戦(E作戦)を指揮。マレー作戦は日本軍による一連の南方作戦の第一発目であり、(海軍によるアメリカ領ハワイへの真珠湾攻撃に先立つこと約1時間20分前である)1941年12月8日午前1時30分(日本時間)、隷下の第18師団がイギリス領コタバルへの上陸作戦を開始しているため、いわゆる太平洋戦争はこのマレー作戦によって開始されたものである。
第25軍は各地でイギリス軍を撃破し快進撃を続けマレー半島(イギリス領マラヤ)を制圧。続くシンガポールの戦いの終結時に敵将イギリス軍司令官のアーサー・パーシバル陸軍中将に対して「イエスかノーか」と降伏を迫ったという逸話は一躍有名になったが、実際にはより落ち着いた紳士的な文言・口調の会話だったという(後述)。この巷に伝わる交渉時の山下の「イエスかノーか」の場面を表した蝋人形が、セントサ島にあるシンガポールの歴史に関する展示をしているImages of Singaporeの蝋人形館や、現在は博物館となっているシロソ砦に展示されている。
統治に際しては「バナナ・ノート」と呼ばれる軍票を発行したり、宝くじを発売するなどして財源確保に努めている。一方で、第25軍作戦主任参謀の辻政信陸軍中佐が強硬に主張した華僑粛清を承認するなどといった汚点も残した。ただしこの華僑虐殺事件は辻の独断専行による面が多く[独自研究?]、山下の責任を否定する見解も存在する。山下の辻に対する印象は否定的であり、「我意ばかり強く、国家の重大事を任せることのできない小人、こすい(ずるい)奴」だと辻のことを評していた辻は陸軍士官学校事件で容疑者の皇道派グループをスパイし摘発を求めるなど、統制派としての動きが顕著な人物でもあり、皇道派の山下との相性はそもそも悪かったと思われる。
日本の新聞はその勇猛果敢なさまを「マレーの虎」と評し(「マライのハリマオ」は別人(谷豊)の異名)、マレー・シンガポールの早期攻略により山下は国民的な英雄となったが昭和天皇は山下に拝謁の機会を与えなかった。これは二・二六事件の時の山下の行動を天皇が苦々しく思っていたためだとも、皇道派の山下に対する統制派の東條英機首相兼陸相が軍状奏上の機会を与えなかったためだともいわれている。ここに至っても二・二六事件は山下の人生に暗い影を投げかけていた。

フィリピン防衛戦
山下はシンガポール攻略という大きな戦績をあげたが、その後は満州の第1方面軍司令官となりしばらく大きな作戦を任されることはなかった。1943年(昭和18年)2月10日、任陸軍大将。

しかし大戦末期である1944年(昭和19年)9月26日、フィリピン防衛のため再編成された第14方面軍司令官として起用され、フィリピンの戦い (1944-1945年)を指揮することとなった。なお参謀長には山下の希望により近衛第2師団長であった武藤章陸軍中将が任ぜられている。
第14方面軍はダグラス・マッカーサーらの指揮するアメリカ軍に対して善戦するが、台湾沖航空戦での誤った戦果報告に基づいて立案されたレイテ決戦を大本営から強いられ、本来予定していたルソン島での決戦を行うことはできなかった。飛来する敵航空機がまったく減らないことから、山下は台湾沖航空戦の戦果発表を誤報と考え、このレイテ決戦に反対していた。このとき山下の部下には、敵の意図や行動を正確に予測することから「マッカーサーの参謀」というあだ名をつけられていた名参謀堀栄三陸軍中佐がおり、あらゆる困難を排して状況把握に成功していた。捕らえられたアメリカ軍パイロットの尋問からもそれは裏付けられたが、南方軍総司令官寺内寿一元帥陸軍大将は命令を変えなかった。このためレイテ決戦に多くの兵力が投入されたが、制海権と制空権を敵に握られていたため輸送船の大半が撃沈された。
続くルソン島の戦いでは、ルバング島の小野田寛郎少尉からの「敵艦見ゆ、針路北」との報告で、マニラ湾からリンガエン湾への迅速な陣地転換に成功するが、徐々に兵力差で圧倒され、最終的には山岳地帯へ退いての持久戦に追い込まれている。山下は民間人が多く残る首都マニラをオープン・シティとするつもりであり、実際に第14方面軍部隊の大半をバギオ方面の山中へ撤退させているが、マニラ死守に固執する海軍や大本営の反対を受け、無防備都市宣言は頓挫。マニラ海軍防衛隊を中心にマニラの戦いが行われ民間人約10万人が死亡している。
敗戦後の1945年(昭和20年)9月3日、山下は第14方面軍司令官としてバギオにて降伏した。この持久戦の中の食糧難は第14方面軍司令部も例外ではなく、降伏時、巨漢で有名だった山下はすっかりやせ細ってしまっていた。

軍事裁判
降伏時は捕虜として扱われたが、すぐに戦犯としてフィリピンのマニラにて軍事裁判にかけられる。
1945年(昭和20年)10月29日審理開始。法廷ではシンガポール華僑虐殺事件、マニラ大虐殺等の責任を問われ、12月7日に死刑判決を受けた。死刑判決後、アメリカ陸軍の法務将校からなる山下の弁護団は、判決を不服としてフィリピン最高裁、アメリカ連邦最高裁判所に死刑執行の差止めと人身保護令の発出を求める請願を出した。しかし米最高裁は6対2の投票で請願を却下し、山下はモンテンルパのニュービリビット刑務所で絞首刑に処せられた。刑の執行は軍服の着用も許されず、囚人服のままで行われている(当時、ほとんどの将校の死刑が囚人服で絞首刑という軍人の名誉を重んじない死刑方法であった。ただし、同じくマニラ軍事裁判で死刑判決が下された本間雅晴陸軍中将の場合は軍服の着用が認められ、名誉を重んじての銃殺刑であった)。遺体は刑場付近に埋められ、現在も所在は不明である。
1959年(昭和34年)、処刑された他のBC級戦犯とともに靖国神社に合祀された。
1970年(昭和45年)には処刑場跡地に辞世を刻んだ慰霊碑が建立された。その後劣化が進んだが、現在はチャンネル桜などにより修復されている。
山下のものとされる軍刀が高知縣護國神社に伝わっている。ただ、本当に山下の物なのかどうかは不明な点もあり、神社は情報提供を求めている。

+  逸話

Wikipedia日本語版「山下奉文」より転載

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最新の20件を表示しています。 コメントページを参照

  • 元ネタはおそらく山下奉文。本人見たら怒らないかな・・・ -- 2017-04-27 (木) 23:32:47
  • マレー虎なのに星1個・・・ -- 2017-04-27 (木) 23:55:05
    • クライストすら星1個だぜ。せめて星3つにしてほしかった(入手しやすさとの兼ね合いで) -- 2017-04-28 (金) 19:24:05
  • 流石にこの人が★1は評価低すぎないか・・・ずっと居ないと思ってたらこんなとこ居たんか・・ -- 2017-05-03 (水) 00:11:04
  • 貨物列車に乗ってもらってる -- 2017-05-05 (金) 21:05:16
    • 山下…シベ超…うっ、頭が… -- 2017-05-07 (日) 04:58:06
    • 資材より事件が集まる列車だな -- 2017-05-31 (水) 00:42:30
  • マレーの虎評価低すぎいい・・・ -- 2017-06-28 (水) 12:01:18
お名前: Black Maroon Green Olive Navy Purple Teal Gray Silver Red Lime Yellow Blue Fuchsia Aqua White

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Last-modified: 2017-10-02 (月) 21:01:18